2019年04月05日

24.音色(ねいろ)の世界。

私はひそかに
詩がかきたい
誰にもわからない
詩がかきたい
そしてそっとそれを
しまっておきたい。

〔中略〕

私は梅の香のような
詩がかきたい
春の日がおとずれてくるような
詩がかきたい。

私は理窟からのがれ出て
そして香気のある
あたたかい
詩がかきたい。

〔中略〕

私は小さい
小さい画(え)がかきたい
それは宝玉のように美しく
かがやき出る画がかきたい。

私は無邪気な
すなおな
なんでもないような
そのくせ見れば
見る程すきになるような
画がかきたい。

〔中略〕

何ものも
秘密のない人
白日のもとに
赤裸々になれる人
私はそういう人に
頭をさげるが、
しかし私は
何事もおぼろに見える
月の夜に
一人さまようような
詩がかきたい。

〔中略〕

私は白日のもとに
赤裸々になっても
それでも何か
不得要領な処(ところ)をもっていたい。

ぼうっとつかみ処のないもの
私はそれがへんに好きだ。
(亀井勝一郎編『武者小路実篤詩集』新潮社、1953年)


武者小路実篤の詩、「私はかきたい」。
私は時々、この「詩」と「画」という言葉を、「音楽」或いは「響き」に置き換えてみる。

梅の香のような響き。
春の日がおとずれてくるような音楽。
理窟ではなく、ただその香気とあたたかみで聴き手を魅了する響き。
小さくとも宝玉のように美しくかがやき出る音楽。
聴けば聴く程魅了される音楽……。


私たちをこれらの体験へと誘(いざな)うもの。
それが、豊かな倍音の変化が織りなす多彩な音色の世界なのだ。

例えば、ホロヴィッツの録音を聴いてみよう。
彼が生み出す響きは空間をさまようが如く漂い、溶け合い、スカルラッティのソナタやショパンのマズルカなどの小品では、まさに「小さくとも宝玉のように美しくかがやき出る」音楽が実現されている。極限まで磨き上げられた、時に戦慄さえも覚える程の美。ホロヴィッツが世界中のピアノファンから今尚愛され続けているのは、その魔術の如き音色を操る、言い換えるならば、倍音をコントロールするテクニック故であると思う。


では、どうすれば倍音をコントロールできるのか。
その第一歩は、自らが鳴らした音の「響きの行方」に耳をすます事だ。

どう打鍵するかではなく、打鍵に対して楽器がどの様な響きで応えてくれるかをじっくりと聴く。

音の発音としては、子音を硬くしっかり発音するのではなく母音を豊かに伸ばす意識。
「ドー!」ではなく「ンドォォォォォ〜〜」と言う感覚で……とでも言えばよいだろうか。この「ォォォォォ〜〜」の部分が音色(倍音の変化による響きの揺らぎ)の正体なのだから。

この経験を徹底的に積み重ねる事で、倍音の変化に耳を開いていく。

音色の観点から言うならば、テクニックの習得において最も重要なのは腕や指をいかに動かすかではなく、響きをコントロールする聴覚を育てる事だ。

「春の日がおとずれてくるような」音楽は……奏者の指ではなく、耳から生まれるのである。
posted by tetsumichi at 07:00| 演奏技術について

2018年08月25日

15.耳慣らし。

耳慣らし、という言葉が正確な日本語なのかどうかは分からないが、私にとって、普段の練習や演奏会のリハーサルを始める前の〈耳慣らしの時間〉は、ちょっとした儀式のようなものだ。

ピアノの前に座る。
だが、いきなり沢山の音や曲を弾くような事は決してしない。
ペダルを踏み、好きな音を一音、ポーンと響かせる。
弱音ならばなお良い。
そして、その響きの行方にじっと耳を傾ける……。

響きがただ衰退していくのではなく、あたかも自分から遠ざかっていくように感じられるならば、耳の準備が整ったと言えるだろう。
何の?
音が生じた後の響きの変化を聴く、つまり倍音を聴く耳の態勢である。
(前回の記事で書いたように、多彩な音色は倍音の変化である)

もう何年も前の事になるが、演奏会前のリハーサルを終えた後に、「最初、まるで調律をしているみたいでしたね」と言われた事がある(笑)。

響きの行方を聴く。
あなたは、聴く準備が整う前に弾いてしまってはいないだろうか?


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2018年08月15日

14.技術を磨く。

どうすれば、ピアノという楽器が柔らかく、歌うような響きを奏でてくれるのか?
いったい弾き手がどう鍵盤に触れると、ピアノは明るい音色で応えてくれるのか?
暗い音は?
春の陽射しの様な暖かみは?
冬の凍てつく様な冷たさは?
心満たす喜びは?
ひとしずくの涙のような悲しみは?
なぜ、私たちは音から温度や心情を感じ取るのだろう?


その鍵を握るのが、倍音。
多彩な音色とは倍音の変化であり、私たちが自分の願う音色を得る為には、倍音をコントロールする術を身に付けなければならない。
そこでタッチの研究が必要になるのだが、タッチと言うと、一般的には指を始めとする、身体の末端部分に関して言及される事が多いのではないだろうか。勿論それも重要だが、順番としてその前に熟慮しなければならない事があると私は思っている。
それは、座る姿勢と、腕及び手の平の中の筋肉の使い方。
理想的な指の動きはあくまで、足の爪先から股関節、丹田の支え、肩を経由して上腕、前腕、そして手の平の中に至るまでの筋肉……それら全てが有機的に働き、身体全体を自然に使えた結果なのだ。何しろ、人間の指は第二関節から先は全く筋肉が付いていないのだから!

かように、技術に関しての考察は本来、適切な筋肉の使い方を知るという極めて具体的な筋肉感覚に依るものであり、それを飛ばしてイメージに頼り過ぎてしまっては優れた技術の習得は困難となるだろう。その上で最も肝に銘じるべきは、ただ単に合理的な身体の使い方(身体にとって合理的な技術)を追い求めても、残念ながらその努力は何の音楽的実りももたらさない事だ。
テクニック(技術)の語源はギリシャ語のテクネーだが、テクネーはまた、芸術をも意味する言葉である。
つまり、技術の鍛錬は創造的思考を深める行為そのものであり、美に対する熟考を伴っていてこそ初めて意義のあるものとなる。

ただ上辺だけの完璧さや正確さ、華やかさを求めるのではなく、常に、音楽を表現する為のテクニックを磨く思慮深さを持つ事。
それ以外に、芸術的演奏に至る道はない。

posted by tetsumichi at 07:00| 演奏技術について