2021年06月15日

36.前腕屈筋群の役割。

テクニックのお話です。

倍音をコントロールする技術。

タッチに関する現時点での私見ですが、前腕の屈筋群をいかに使うかにかかっているように思います。
浅指屈筋、橈側手根屈筋、尺側手根屈筋……具体的にどの筋肉がどれくらいの割合で働いているのかは正確には分かりませんが、前腕の内側、特に肘に近い部分を触りながら響きを確かめると、屈筋群がしっかり働いている状態と緩んでしまっているそれとでは、楽器の響き方が明らかに変わります。
日本で一般に言われている脱力は、恐らく結果的に前腕を”虚脱(あるいはそれに近い)状態にしようとしてしまっている”場合が多いのではないでしょうか。前腕から意図的に力を抜いて(抜こうとして)しまっては、そもそも指を効率よく動かす事すら不可能なはずです。

以前整形外科の医師の方に伺いました。「指を動かす筋肉はほとんど前腕の中にあり、更に指先の細やかな動きになると虫様筋の働きが重要になるんですよ。」

ピアノと言う楽器を倍音豊かな、歌う響きで奏でるためには、前腕の使い方を考える事が重要になると思います。いわゆる“指先を回す”発想を捨て、前腕の屈筋群を意識して指を動かす事で、得られる響きが変わっていくはずです。



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2019年07月15日

29.聞こえてくる。

先月、ミハイル・プレトニョフ氏のピアノリサイタル、横浜(6月16日、フィリアホール)東京(6月17日、東京オペラシティ コンサートホール)の2公演に足を運びました。

彼にしか創造し得ない響きの世界に圧倒されながら、思った事があります。
それは、「聴いている(聴こうとしている)」と「聞こえている」事の感覚の違い。
両者の間には、非常に大きな隔たりがあるのではないかと……。

例えばJ.S.バッハの二声を弾く時。
一般的には音をよく聴きなさい、バランスをよく聴きなさいと言います。けれど、聴き手はどうでしょうか?常に二声を意識的に聴き分けようと頑張って聴いている……?

答えは否。

それでは疲れてしまい、音楽を味わうどころではなくなってしまいます。
つまり弾き手も、「自らが能動的に聴かずとも」二つの声部がすっきりと「聞こえてくるように」弾かなければならない。そのレヴェルに至って初めて、聞きやすく理想的なバランスが実現されたと言えるのです。

気が遠くなる程難しい事なのですが……私は40年程ピアノを弾いてきて、ようやくその事に思い至りました。

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2019年06月25日

28.音か、響きか。

音を聴く事と、響きを聴く事。

ピアノを演奏する上で、両者は似ているようで全く異なる行為であると言えます。

音とは、ハンマーが弦を打った瞬間に発生する、言わば打撃音。
響きとは、ハンマーの打撃によって弦が振動し、その振動が駒を介して響板に伝わり空気を振動させる事で生じる、空間へ広がり長く続く音の余韻、とでも説明できるでしょう。

テニスに例えるならば、ラケットでボールを打つ瞬間が音であり、その後相手のコートへ飛んでいくボールの軌道が響き。そんなイメージを持ってもよいと思います。

そのようにイメージすると、音を聴く事と響きを聴く事の違いを明確に認識できるのではないでしょうか。


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2019年04月05日

24.音色(ねいろ)の世界。

私はひそかに
詩がかきたい
誰にもわからない
詩がかきたい
そしてそっとそれを
しまっておきたい。

〔中略〕

私は梅の香のような
詩がかきたい
春の日がおとずれてくるような
詩がかきたい。

私は理窟からのがれ出て
そして香気のある
あたたかい
詩がかきたい。

〔中略〕

私は小さい
小さい画(え)がかきたい
それは宝玉のように美しく
かがやき出る画がかきたい。

私は無邪気な
すなおな
なんでもないような
そのくせ見れば
見る程すきになるような
画がかきたい。

〔中略〕

何ものも
秘密のない人
白日のもとに
赤裸々になれる人
私はそういう人に
頭をさげるが、
しかし私は
何事もおぼろに見える
月の夜に
一人さまようような
詩がかきたい。

〔中略〕

私は白日のもとに
赤裸々になっても
それでも何か
不得要領な処(ところ)をもっていたい。

ぼうっとつかみ処のないもの
私はそれがへんに好きだ。
(亀井勝一郎編『武者小路実篤詩集』新潮社、1953年)


武者小路実篤の詩、「私はかきたい」。
私は時々、この「詩」と「画」という言葉を、「音楽」或いは「響き」に置き換えてみる。

梅の香のような響き。
春の日がおとずれてくるような音楽。
理窟ではなく、ただその香気とあたたかみで聴き手を魅了する響き。
小さくとも宝玉のように美しくかがやき出る音楽。
聴けば聴く程魅了される音楽……。


私たちをこれらの体験へと誘(いざな)うもの。
それが、豊かな倍音の変化が織りなす多彩な音色の世界なのだ。

例えば、ホロヴィッツの録音を聴いてみよう。
彼が生み出す響きは空間をさまようが如く漂い、溶け合い、スカルラッティのソナタやショパンのマズルカなどの小品では、まさに「小さくとも宝玉のように美しくかがやき出る」音楽が実現されている。極限まで磨き上げられた、時に戦慄さえも覚える程の美。ホロヴィッツが世界中のピアノファンから今尚愛され続けているのは、その魔術の如き音色を操る、言い換えるならば、倍音をコントロールするテクニック故であると思う。


では、どうすれば倍音をコントロールできるのか。
その第一歩は、自らが鳴らした音の「響きの行方」に耳をすます事だ。

どう打鍵するかではなく、打鍵に対して楽器がどの様な響きで応えてくれるかをじっくりと聴く。

音の発音としては、子音を硬くしっかり発音するのではなく母音を豊かに伸ばす意識。
「ドー!」ではなく「ンドォォォォォ〜〜」と言う感覚で……とでも言えばよいだろうか。この「ォォォォォ〜〜」の部分が音色(倍音の変化による響きの揺らぎ)の正体なのだから。

この経験を徹底的に積み重ねる事で、倍音の変化に耳を開いていく。

音色の観点から言うならば、テクニックの習得において最も重要なのは腕や指をいかに動かすかではなく、響きをコントロールする聴覚を育てる事だ。

「春の日がおとずれてくるような」音楽は……奏者の指ではなく、耳から生まれるのである。
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2018年08月25日

15.耳慣らし。

耳慣らし、という言葉が正確な日本語なのかどうかは分からないが、私にとって、普段の練習や演奏会のリハーサルを始める前の〈耳慣らしの時間〉は、ちょっとした儀式のようなものだ。

ピアノの前に座る。
だが、いきなり沢山の音や曲を弾くような事は決してしない。
ペダルを踏み、好きな音を一音、ポーンと響かせる。
弱音ならばなお良い。
そして、その響きの行方にじっと耳を傾ける……。

響きがただ衰退していくのではなく、あたかも自分から遠ざかっていくように感じられるならば、耳の準備が整ったと言えるだろう。
何の?
音が生じた後の響きの変化を聴く、つまり倍音を聴く耳の態勢である。
(前回の記事で書いたように、多彩な音色は倍音の変化である)

もう何年も前の事になるが、演奏会前のリハーサルを終えた後に、「最初、まるで調律をしているみたいでしたね」と言われた事がある(笑)。

響きの行方を聴く。
あなたは、聴く準備が整う前に弾いてしまってはいないだろうか?


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