2020年05月11日

31.謙虚であれ。── ゴルノスターエヴァ先生の事

前回の記事(「30.ヴェーラ先生との出会い」)の続き、もう一つのエピソードです。

私が11歳だった1990年当時、日本のクラシック界では、1985年にショパンコンクールで優勝したスタニスラフ・ブーニンがまだまだ冷めやまらぬフィーバーを巻き起こしていました。何せ両国の国技館で、単独でのリサイタルを開いてしまったほどです。
小学生だった私もご多分にもれずブーニンにすっかり心酔しており、自宅のピアノ部屋の壁にはブーニンのポスターを貼り、表紙に《スタニスラフ・ブーニン 〜衝撃のショパンコンクール〜》とのタイトル(うろ覚えですが)とブーニンの顔写真が印刷された、彼がショパンコンクールで実際に演奏した作品集と言うコンセプトで編纂された楽譜を使って、革命のエチュードを練習していたのです。そして私は ── 子供の無邪気さというのは全くもって恐ろしいもので ── その楽譜を携え件のオーディションに臨んだのでした。

果たして、ヴェーラ先生は会場全体に向かってこの様にお話しされたのです。

「皆さん、彼が持ってきたこの楽譜を見て下さい。この楽譜の表紙には、スタニスラフ・ブーニンと言う名前と彼の顔写真が大きく印刷され、その下に、ショパンと小さく書かれています。私は勿論、ブーニンが大変素晴らしいピアニストである事は知っています。しかし、この楽譜はブーニンがこれらの作品を弾いたからという理由だけで出版されたものに過ぎません。これは作曲家ショパンに対する冒涜です。」

私は今尚、いえ、今になったからこそ、このヴェーラ先生のお話は自分にとって、一生の教訓を含んでいたのだと思えてならないのです。

作曲家への敬意を忘れてはならない事。
音楽への敬意こそが、真の意味での音楽への愛である事。

私が持参した楽譜をご覧になられたヴェーラ先生は、その日会場に居合わせた全ての人に、それを理解する事の大切さを訴えずにはいられなかったのだと思います。
だからこそ、私の記憶の奥底にも留まる事となった。

音楽が非常に真剣なものである事を、私はヴェーラ先生から学びました。
10代の内からその様な経験を重ねられた事を、私は心の底から幸いに思っています。


*写真は2005年6月27日、モスクワ音楽院大ホールの舞台裏にてヴェーラ先生と。

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posted by tetsumichi at 11:00| ロシアピアニズム

2020年04月18日

30.ヴェーラ先生との出会い。── ゴルノスターエヴァ先生の事

色褪せる事のない、出会いの記憶。
彼(彼女)の、その後の人生を導く事になる出会い。

11歳の春、私は初めて、後のモスクワでの留学期間を含め18年間師事する事となるヴェーラ・ゴルノスターエヴァ先生にお会いしました。そこで私の身に起きた二つのエピソードを、お話しさせていただこうと思います。

それは何人かの日本の子供たちが先生の前で演奏し、その場で感想やアドバイスをいただくオーディションのような場で、私の演奏プログラムにはショパンの作品10のエチュード集の最終曲、所謂《革命のエチュード》が入っていました。一通り演奏を終えいざ先生と向かい合った時……私はどんな気持ちでいたのでしょうか?
このエチュードの演奏に対し、ヴェーラ先生はこの様な事をおっしゃられたのです。

「今のあなたには、技術的にも精神的にもこの作品は演奏できないのですよ」

そして自らピアノに向かわれると、全曲を通して演奏して下さったのです!
その演奏とお姿は、ヴェーラ先生との最初の出会いとして、私の脳裏に強烈に刻まれる事となりました。

先生がご自身の著作《コンサートの後の二時間》の中で、ショパンの最後のマズルカについてこの様に綴られています。

“……ショパン最後の「マズルカ」(へ短調作品68)。ひきずりこまれそうな茫然自失、疲労、孤独が漂う。やり場のない悲しみ、死を目前にした嘆き……
ショパンの最期の日々を語ったどんな文章も、この音楽以上のものを私たちに語ってはいない!”

素晴らしい音楽作品は、それ自体が全てを語り得る。
ヴェーラ先生の演奏は、11歳の子供の私にでさえ、ショパン自身が味わったであろう身を引き裂かれる様な苦しみや悲しみ、憤り、絶望を教えて下さったのでしょう。

音楽に語らせる事。
音楽への奉仕。
先生はまさに、その心のあり方を体現されている芸術家でいらっしゃいました。

もう一つのエピソードは、次回のブログで書かせていただきます。


posted by tetsumichi at 15:00| ロシアピアニズム

2019年05月15日

26.種をまく。

「ソムリエがワインをテイスティングするように、貴方はここで様々なド(の音)の響きを味わわなければならないのですよ。」

モーツァルトのピアノソナタハ長調KV330のレッスンで、ゴルノスターエヴァ先生が第2楽章冒頭の3つのド音を様々なタッチで響かせながら、そうおっしゃられた事があった。
当時私は小学6年生、ソムリエという職業を知っていたかどうかすら甚だ怪しいのだが……兎にも角にも、先生は相手が子供だからと手加減する事は一切なく、響きを聴く事の重要性を半ば洗脳するかの如く(!)、10代の私に徹底的に植え付けて下さったのである。


教師の役割とは何だろうか?
レッスンの場において演奏の体裁を整える事を否定はしないが……私はそれよりも、生徒の心の土壌に種をまく事こそが教師本来の役割であると思う。
例えその場で生徒が理解、実践できなくとも、その生徒の中に“何か”が残るかどうか。
教師が何かを残す事が出来れば、いずれそれは、生徒自身の努力によって美しい花を咲かせるだろう。

ゴルノスターエヴァ先生は、そうして日本の生徒たちを育てて下さった。
私は、至らずとも先生のその精神を受け継いで音楽に従事する事が、自分自身がなすべき務めだと思っている。


posted by tetsumichi at 07:00| ロシアピアニズム

2018年09月05日

16.内なる声に。

「あなたが主張するのではなく、音楽に語らせなさい。」

モスクワ留学中に、エンリケ・グラナドスのピアノのための組曲《ゴイェスカス》より第5曲、“愛と死”をヴェーラ先生にレッスンして頂いた時の事だ。

「この曲は、あからさまな情熱をぶつけて弾いてはいけない。この作品に内包されているのは、ただひたすらに献身的な愛と、その愛に常に隣り合わせで存在する死、私たち人間にとっての、真の悲劇。
演劇における役柄の一つに、“悲劇役者”というのがあるのをあなたは知ってる?彼らは悲しい出来事をわざと大仰な口調、身振りで表現する。勿論、語っている内容そのものは悲劇なのだけれど、そのような大袈裟な芝居によって、実際には観客の笑いを誘う喜劇になる。今のあなたの演奏からはその様な印象を受ける。
自分が作品の中に感じた悲しみや苦しみを、そんなにあけっぴろげに表現してはいけない。そのような安易な感情の投影は、この曲の品位を落としてしまう。優れた音楽作品は、それ自体が語られるべき充分な内容を持っている。」

そして冒頭の言葉をおっしゃられたのだ。
あなたではない、音楽に語らせよと。

当時私は29歳だったが、この「音楽に語らせる」という事がどうしても分からなかった。
気持ちを込めれば大袈裟になってしまい、抑えると演奏そのものがこじんまりとなってしまう。いったいどうすれば……。

つまるところ、重要なのは響きなのだ。
器楽曲には言葉がない。
故に響きに表情がなければ、色がなければ、温度がなければ、変化がなければ……それは、ただ強弱の差のみの音の羅列となり、音楽そのものは何も語り得ない。
また、演奏者があからさまに自分の情熱を鍵盤(音楽)にぶつけてしまっては……悲劇は誇張され喜劇になってしまうというのも、予想がつくだろう。

響きを徹底的に追求する過程で、作品の内なる声が徐々にきこえるようになる。
その内なる声を演奏者自身がきけてこそ、初めて“音楽自身”が語りだすのであり、そうでなければ、演奏は単なる奏者の自己主張にすぎなくなってしまう。

勿論、演奏に対する価値観は様々だ。様々であってよいと思う。
ただ私は……内なる声がきこえてこない演奏には、それが技巧的にどんなに優れていようとも、どこか虚しさを感じてしまうのだ。


posted by tetsumichi at 07:00| ロシアピアニズム

2018年05月15日

5.ピアノは弦楽器。

弦楽器とは、弦の振動によって響きを生じさせる楽器の総称であり、その発音機構の違いにより擦弦楽器、撥弦楽器、打弦楽器の3種類に分類される。それぞれが、“弓などで擦る事で”、“はじく事で”、“ハンマー等で打つ事で”弦を振動させており、例えばヴァイオリンを始めとする一般的に弦楽器と呼ばれるものは正確には擦弦楽器であり、撥弦楽器の代表と言えばチェンバロだろう。
 
それでは、ピアノはどうだろうか?
単純に打楽器と認識されてしまう事も多いピアノだが……“ハンマーで打つ事で弦を振動させ、響きを生じさせる”という仕組みを考慮するならば、ピアノは明らかに打楽器ではなく打弦楽器、そう、弦楽器に分類されて然るべきと言える。
弦楽器である以上、力んで打鍵する、つまり弦にハンマーを押し付けるような弾き方をしてしまっては、響きは殺され、楽器がもはや楽音とは呼べない悲鳴をあげるのは当然の事だ。
 
最小のエネルギーでいかに弦をよく振動させるか。
弦がよく振動していればしているほど、響きに含まれる倍音成分が豊かになり、響きそのものが歌い始めるのだ。
 
先月の記事(「3.響きに思う。」)で、ロシアでは《打鍵》に相当する言葉はなく《鍵盤に触れる》と表現する、と書いたが、ピアノが弦楽器であると言う観点からも、鍵盤を打ってしまっては絶対に伸びやかなよい響きは得られない。
 
恩師、故ヴェーラ・ゴルノスターエヴァ先生の言葉を借りよう。
《私が、愛する者に触れるかのように、優しさを込めてピアノに触れると、ピアノも同じ優しさを持って応えてくれる。私がピアノに接するように、ピアノも私に接してくれる……。
ピアノにただやみくもに突進してはいけない。ピアノは無造作にたたかれることには耐えられないのだ。》
 
勿論、ただ触れるだけでは楽器は歌わない。
いかに触れるかに、優れた奏者は心を砕く。
ヴァイオリニストが、チェリストが、弓を弦に力任せに押し付けてしまったらどんな結果が待っているだろうか。
ピアノもまた紛れもなく弦楽器である事を、私たちは常に心に留めておかなければならない。
 
力ではなく、腕の重みを使って楽器を慈しむように。
あなたがピアノに接するように、ピアノもあなたに接してくれるのだから。
 
posted by tetsumichi at 07:00| ロシアピアニズム