2018年04月25日

4.美を求める。

学生、プロフェッショナルを問わず、日々の練習の時間がどうあるべきか。
彼らにとって、それが〈美の発見の場〉となり得ているならば、理想と言えるだろう。

例えばテクニックを考える時、弾き方の研究も勿論重要だが、もしそこに、美しい響きを求める意識が伴っていなかったとしたら……その技術の鍛錬は何の実りもないものとなってしまう。先ず初めに自らが理想とする響きがあり、その為に身体をどう使うかを考えるのが、本来あるべき順序なのだから。

演奏とは何だろう。
創造とは……。

少し前の事になるが、師匠である大野眞嗣先生がレッスンでJ.S.バッハの「主よ、人の望みの喜びよ」をお聴かせ下さり、そのあまりの素晴らしさにその場にいた全員が圧倒された。想像を絶する響きの密度、輝き、規模……永遠の時を感じさせるような、先生の響きによって創造される神々しいまでの高貴なバッハの音楽に、皆が言葉を失ってしまったのだ。

前述の問いにかえろう。
演奏とは?
創造とは?
それは、飽くなき美の追求であり、美への奉仕であると私は思う。

太宰治がこんな言葉をのこしている。
《美しさは、人から指定されて感じいるものではなくて、自分で自分ひとりで、ふっと発見するものです》

自分で自分ひとりで。
美の発見と追求は、容易ではない。
何より《自分ひとり》である事に耐え抜く精神力が必要であり、そうして自らの美意識に従いその道を辿る人だけが到達できる世界、享受できる喜びがある。

私が今いる場所からは、パルナッソス山の頂上はまだはるか遠くに見えるだけだ。
けれども、自分の意志で音楽を人生の仕事として選んだ以上、道を歩む厳しさから逃げず、美への奉仕の心を失わない人間でありたいと思っている。

posted by tetsumichi at 07:00| 音楽について

2018年04月10日

2.心技一体

技術の原点は心になければならない。

例えば、ピアノの演奏で考えてみよう。
一つの音に気持ちを込める、一音入魂。それは正しい。
けれど、感情のままに鍵盤に指を押し付けてしまっては、ピアノは悲鳴をあげるだけだ。
弱音に心を込めようとする時、ただ鍵盤にそっと触れるだけでは、か細い貧弱な音になるだけだ。
一方で、どんなに優れた技術を身に付けたとしても、その人の心の内に豊かな音楽がなければ、技術は宝の持ち腐れとなってしまう。

良い技術を学ぶとは、正しい心の込め方を学ぶ事。
心(想い)なくして技術の鍛練は成り立たない。私たちは、ハノンの練習とJ.S.バッハの作品の演奏が決して異なる行為でない事を、理解しなければならないと思う。何故ならピアノの前に座った以上、いつなんどきも、単なる音ではなく音楽を奏でるべきなのだから。

恩師である故ヴェーラ・ゴルノスターエヴァ先生が、いつだったかおっしゃられた事を思い出す。
「ギレリスは、ハ長調の音階を弾いても音楽だった。」
それこそが本物の技術、理想的な心技一体の姿なのだと思う。

*エミール・ギレリス(1916〜1985)
旧ソヴィエト連邦(現ウクライナ)、オデッサ生まれ。20世紀を代表する巨匠ピアニストの1人。
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2018年04月05日

1.音楽に携わるならば……。

音楽に対する愛情があれば
作曲家が書いた全ての音を自ずから
大切にせずにはいられないだろう。

音楽に対する愛情があれば
ハーモニーの変化に無関心ではいられず
それを何とか響きで表現したいと熱望するだろう。

音楽に対する愛情があれば
優れた技術を身に付ける為にかかる長い長い年月、労力、忍耐……
それら全てを苦と思わず受け入れられるだろう。

音楽に対する愛情があれば
興味も情熱も永遠に尽きる事はないだろう。

音楽に対する愛情があれば
他人からどの様な評価を受けようと迷う事なく
自分が到達せんと願う境地に向かって歩み続けられるだろう。

音楽に対する献身があれば
音楽は必ずやその人の心を豊かにしてくれるだろう。

音楽に対する献身があれば
その人は決して思い上がる事はないだろう。

音楽に対する愛情と献身があれば……
その人は感謝を忘れる事はないだろう。

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