2018年07月15日

10.良心。

「私はこれをしなければならない」と言う
使命感に突き動かされて、
行動している人がいる。
「私はこれをしたい」と言う
自分の欲求を叶えようとして、
行動している人がいる。
あくまで生き方の違いであり、
是非の問題ではない。
ただ私は、
前者の様な生き方をしている人たちに
心をひかれる。


『できるだけの善を行うこと、
何にもまして自由を愛すること、
そして、たとえ王座のためであろうと、
決して真理を裏切らないこと。』
L.v.ベートーヴェン

音楽史上初めて、音楽家は職人ではなく芸術家でなければならない、との意志表明をした人物が、ベートーヴェンであると言われている。彼の音楽が不滅であり、人々の心を感動させ続けているのは、何よりその根底に力強い良心があるからだろう。

音楽に誠実である事。
人生に誠実である事。
良心を失わない事。

勿論、ベートーヴェンも人間だった。
私はその音楽、存在を盲目的に神聖化するつもりは全くないが、それでも尚、かくも自身の良心に忠実に生きたベートーヴェンの人生に驚きを禁じ得ない。
心を導く。
恐らくそれが、芸術の力なのだ。

かように、音楽作品とは、突き詰めると作曲家の良心の結実とは言えまいか。
そして、作品に込められた彼ら(作曲家たち)の良心を演奏家と聴衆の間で共有出来る場が、演奏会なのだと思う。
演奏会が、奏者の自己満足(力量のアピール)に終わってしまってはいけない。
ただ聴き手を楽しませる事が、第一目的になってしまってはいけない。
なぜなら、これらは全て、演奏者側からの一方通行になり得る危険性をはらんでいるからだ。音楽を「共有する」事が私たちに聴く喜びや深い感動をもたらすのであり、演奏者側に「分かち合い」の思いがなければ、文化としての音楽の価値は著しく低下してしまうように思う。

真の芸術とは、決して刹那的な娯楽ではなく、私たちに生きる希望を与えてくれるものなのだから。


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2018年06月15日

7.音楽断想【2】

・根を育てる
根っこが貧弱な花はすぐ枯れてしまうように、音楽の勉強(ここではピアノの演奏を想定する)においても、彼(彼女)の才能が開花するには相応の立派な根が必要となる。
音楽を学ぶ上での根っこ……私は、《優れた演奏技術》こそがそれに当たると思う。優れた演奏技術が根っことしてあり、そこに、例えば知識や経験と言った養分が与えられる事で漸く美しい花が咲く。この技術と言う根がなければ花自体の生命力によって美しい花は咲かないし、たとえ教師が枝葉を整え仕立て上げたとしても決して長続きはしないだろう。
私は生徒に対して、そして何より自分自身に対して、忍耐強く根っこを育てられる人間でありたい。
 
・好奇心
作曲家は、音楽によって何か表現したいと欲する故に作品を書く。
なぜフォルテを書いたのか?なぜピアノを書いたのか?なぜクレッシェンドを?なぜディミヌエンドを?なぜ単なるスタッカートではなくスラースタッカートを?なぜ、その音にアクセントを?なぜここで転調するのか?なぜここでこの和音を選んだのか?そもそも、なぜこの調でこの作品を作曲したのだろう?
楽譜を注意深く見れば、疑問は果てしなく浮かぶ。弾き手が能動的な態度で作曲家の意図を探り、自分なりの理解を持たなければ、演奏は形ばかりの行為となってしまう。音楽を学ぶ人たちには、日々の練習がただ譜面上の音符や記号を再現する作業に陥らない為にも、是非楽譜に書かれた事の意味を問う好奇心を燃やし続けて欲しい。
 
・ハーモニー
「水を得た魚」という慣用句があるが、ハーモニーとメロディーの関係も、まさに水と魚に例えられると思う。水があってこそ、魚は生き生きと、自由に泳ぎ回る事が出来る。いや、そもそもほとんどの魚が水が無ければ生きられないだろう。音楽も然り。ハーモニーという水があってこそメロディーという魚が泳ぐ事が出来る。豊かに響くハーモニーの中でこそ、メロディーは自由に歌う事が出来る。
J.S.バッハの作品を弾いていると、つくづくそう思うのだ。
 
・沈黙
沈黙は、しばしば音そのものよりもはるかに多くを語る。
沈黙は、その後に発せられる言葉や音に、より一層の深みを与える。
私が10代の頃、故ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ氏がマスタークラスにて、「聞こえるか聞こえないかの弱音を奏でられてこそ、本物の演奏家なのです」とお話し下さった事を、勿論一言一句正確ではないが今も鮮明に記憶している。甚だおこがましい行為と承知の上で、氏のこのお言葉に付け加えさせて頂きたい。
「沈黙(休符)で音楽を表現できてこそ、本物の演奏家である」と。
 
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2018年05月25日

6.音楽断想【1】

・左手の熟達
生徒のレッスンをしていると、いかに左手のパートに関心を持つべきか、左手が音楽的に弾けているかどうかが重要である事を痛感する(左手に無関心な生徒が多いのだ)。美しい旋律、華やかなパッセージ……弾き手にとって、右手のパートは誘惑に満ちている。だが、支えである左手のパートの表現がおざなりになってしまっていては、右パートは決して、真の美しさを発揮し得ない。左手の熟達。ポリフォニー音楽の最高峰であるJ.S.バッハを学ぶ意味の一つが、この事であると思う。
 
・感じるとは
「作品をどう感じているか。」
「感じた事を大胆に表現する。」
演奏において、かような演奏者の姿勢が大変重要である事は言うまでもないが、私たちは、その真意を熟慮しなければならない。この場合の「感じる」とは、「作曲家がその作品を通して何を訴えようとしたかを汲み取る」事であり、「一つ一つのフレーズがどう表現されたいと欲しているかを理解する」事であり……演奏とは、決して演奏者本位の行為でないのだと。作品(音楽)に、心身を捧げる事の難しさと尊さ。音楽の道を志す若い生徒たちは、いつか必ず、この事に深く思い至らなければならないと思う。
 
・早食い競争は……
演奏者が耳でタッチをコントロールできておらず(場合によっては、コントロールしようと言う意識すら感じられず)、指先が走るがままの状態になっている演奏を聴くと、例えは悪いが、まるで早食い競争を見させられているようでうんざりしてしまう。
どうか、無意味に速く弾かないでほしい(そう聞こえてしまうように弾かないでほしい)。
どうか、一つ一つの音に価値を見出だし、「作曲家が書いた『音楽』を味わいながら」弾いてほしい。
 
・成長
成長とは。自分の欠点を認める素直さを持つ事。それを克服せんとする忍耐を持つ事。たとえ克服できたとしても慢心せず、絶えず自分を疑い、より向上しようとする探求心を持つ事。それは、かくも長く大変な道程なのだ。恥やプライドを盾に、或いは精神的稚拙さ故に、そのスタートラインに立つ事(自身の欠点に真正面から向き合う事)から逃避しているような人を見ると、つくづく勿体無いと感じずにいられない。このスタートラインに自らの意思で立てるか否かが、その人の人生における大きな分岐点の一つとなるのだと思う。
私はそれを、音楽を通して学んだ。
 
 
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2018年04月25日

4.美を求める。

学生、プロフェッショナルを問わず、日々の練習の時間がどうあるべきか。
彼らにとって、それが〈美の発見の場〉となり得ているならば、理想と言えるだろう。

例えばテクニックを考える時、弾き方の研究も勿論重要だが、もしそこに、美しい響きを求める意識が伴っていなかったとしたら……その技術の鍛錬は何の実りもないものとなってしまう。先ず初めに自らが理想とする響きがあり、その為に身体をどう使うかを考えるのが、本来あるべき順序なのだから。

演奏とは何だろう。
創造とは……。

少し前の事になるが、師匠である大野眞嗣先生がレッスンでJ.S.バッハの「主よ、人の望みの喜びよ」をお聴かせ下さり、そのあまりの素晴らしさにその場にいた全員が圧倒された。想像を絶する響きの密度、輝き、規模……永遠の時を感じさせるような、先生の響きによって創造される神々しいまでの高貴なバッハの音楽に、皆が言葉を失ってしまったのだ。

前述の問いにかえろう。
演奏とは?
創造とは?
それは、飽くなき美の追求であり、美への奉仕であると私は思う。

太宰治がこんな言葉をのこしている。
《美しさは、人から指定されて感じいるものではなくて、自分で自分ひとりで、ふっと発見するものです》

自分で自分ひとりで。
美の発見と追求は、容易ではない。
何より《自分ひとり》である事に耐え抜く精神力が必要であり、そうして自らの美意識に従いその道を辿る人だけが到達できる世界、享受できる喜びがある。

私が今いる場所からは、パルナッソス山の頂上はまだはるか遠くに見えるだけだ。
けれども、自分の意志で音楽を人生の仕事として選んだ以上、道を歩む厳しさから逃げず、美への奉仕の心を失わない人間でありたいと思っている。

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2018年04月10日

2.心技一体

技術の原点は心になければならない。

例えば、ピアノの演奏で考えてみよう。
一つの音に気持ちを込める、一音入魂。それは正しい。
けれど、感情のままに鍵盤に指を押し付けてしまっては、ピアノは悲鳴をあげるだけだ。
弱音に心を込めようとする時、ただ鍵盤にそっと触れるだけでは、か細い貧弱な音になるだけだ。
一方で、どんなに優れた技術を身に付けたとしても、その人の心の内に豊かな音楽がなければ、技術は宝の持ち腐れとなってしまう。

良い技術を学ぶとは、正しい心の込め方を学ぶ事。
心(想い)なくして技術の鍛練は成り立たない。私たちは、ハノンの練習とJ.S.バッハの作品の演奏が決して異なる行為でない事を、理解しなければならないと思う。何故ならピアノの前に座った以上、いつなんどきも、単なる音ではなく音楽を奏でるべきなのだから。

恩師である故ヴェーラ・ゴルノスターエヴァ先生が、いつだったかおっしゃられた事を思い出す。
「ギレリスは、ハ長調の音階を弾いても音楽だった。」
それこそが本物の技術、理想的な心技一体の姿なのだと思う。

*エミール・ギレリス(1916〜1985)
旧ソヴィエト連邦(現ウクライナ)、オデッサ生まれ。20世紀を代表する巨匠ピアニストの1人。
posted by tetsumichi at 07:00| 音楽について