2019年02月05日

21.私の道標。

誰にも、人との会話や読書等の体験を通して、心に深く刻まれた言葉や話があるだろう。


《三人の男が石を運んでいるところに出くわした人が、その三人に訊ねた。

なぜ貴方は石を運んでいるのですか?

一人目はこう答えた。
命令されたからだよ。運べと言われたからやっているんだ。

二人目はこう答えた。
僕には愛する家族がいるんだ。彼らの為に僕は働いている。これが僕の仕事なんだ。

三人目はこう答えた。
向こうを見て。僕たちは今、教会を建てているんだ。これは僕の信仰なんだ。》


モスクワで留学生活を始めて恐らく2、3年目の頃、同じく音楽院に在学していた先輩の日本人ピアニスト(今も私が尊敬してやまないピアニストのお一人である)から聞いたこのお話は、20年近くの年月を経た今尚鮮明に、私の記憶の引き出しにしまわれている。


音楽とは、広義には人間の生き様の表れだ。

つい目先のことばかりに気を取られあくせくしがちな日々にあって、私はしばしば、“命令されたからか、愛する者の為なのか、自分の信仰によってなのか。人の生き方には、大きく分けてその三つのステージがあるんだよ。これは神父様から聞いたお話だけれど……”と、友人が穏やかな口調で教えてくれたこの話を思い出し、三人の男の返答に例えられた人生のステージについて考える。



自分が、どの人生のステージで生きているのか。

自分は、どの人生のステージで生きるべきなのか。


この自問自答の過程に、音楽に対して常に謙虚である為 ── 人生を正しく歩んでいく為の道標があるからだ。


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2019年01月25日

20.音色の追求。

《私は進むべき絵の道を、色彩によって切り開いてきた》

本の帯に印刷されたこの言葉が目に飛び込んできた時、私は思わずハッとした。


《色彩が豊かなところには人が集まり、生きる喜びが交錯する。多様な色を持つ社会では一人ひとりが個性をきらめかせ、のびのびと生きることができる。そう気がついたのは二十八歳のとき、留学先のイタリアでのことだった。この国の太陽を浴び、地中海の風を吸い込んだ私の絵は、たちまち縦横無尽の色で埋まるようになる。「絹谷さんの絵は生のエネルギーがあふれる人間賛歌だね」と言ってくださる方があるが、私は進むべき絵の道を色彩によって切り開いてきたと言っていい。(中略)
「じゃあ、世の中から色がなくなったらどうなるかな」。私は子供たちに問いかける。
たとえば喪服。愛する人を亡くしたとき、私たちは悲しみに沈むため色を捨てて喪に服す。あるいは宇宙や深海、三〇〇〇メートル超の高山を思い浮かべてみてもいい。色数が極端に少ない、こうした場所で生物が生きていくのは難しい。多様さのないひと色の社会からは活力が失われてしまうのだよ──。
子供たちは我先にパレットを広げ、思い思いの色で画用紙を染めていく。
私は今年(二〇十六年)七十三歳になった。ひたすらに絵を描き、生きてきた。よくぞ生活できたものだと自分でも思う。年を重ねると、人は「わび・さび」に向かいがちだ。しかし、心を干からびさせないように、ますます多くの色に身を浸していたい。》
『絹谷幸二・著/絹谷幸二 自伝』より

音楽にも、全く同様の事が当てはまる。


多彩な音色は、作品そのものに命を与え輝かせる。

色彩の豊かさが、奏者の精神を作品の更なる深みへと至らしめる。

多種多様な音色の世界に身を置く事で、奏者の感性は益々豊かになる……。


音色を求めての試行錯誤は、突き詰めようとすればするほど益々興味深く、終わりなき道となるのだ。

歩めども、歩めども。


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2019年01月15日

19.チェーホフの言葉。

《飲む事を欲し、海の水全てを飲み干さんとする── それが信仰である。
飲もうと思い、コップ2杯だけの水を飲み干す── それが科学である。》


ロシアの作家アントン・チェーホフ(1860〜1904)のこの言葉を、私はモスクワ留学時代にロシア語の先生から教えていただいた。

音楽を生業としている私にとって、このチェーホフの格言は大切な指針になっている。

心で動くのか、知性で動くのか。


是非の問題では、勿論ない。

ただ、理論的思考が時に感覚の妨げになる事、思考が優先した演奏はどこか人工的な印象を与える事を、私は身を持って経験してきた。

「心で仕事をしなさい」
「感情で音楽を理解しなさい」

10代の頃、ゴルノスターエヴァ先生にそう言われた事がある。


心で書かれた音楽は、心でもってのみ理解し得るのだ。


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2018年09月25日

17.学びとは。

《自分が「この世界で生きよう」と思って、そのことだったらこの人に聞かなきゃわからない、という師匠を見つけたら、追い返されようが何されようが、そこにずっとへばりついて動かないという気持ちが大事なんだな。
何か目標があって、師匠を見つけたら、ずっと食らいついていくぐらいの根性がないとダメなんだ。そうやって、いい環境を求めていけば、素晴らしいものが与えられるからね。》
ー 酒井雄哉著『そのままの自分を出せばいい』より。


自分が心の底から求めるものがあり、それを得るチャンスに恵まれたならば、なりふり構わず、プライドなどかざさず、とことん求めればよい。ただ渇望し、ひたむきになればよい。そうすれば、必ず自分にとって必要なものが与えられる。

しかしながらそれは……場合によっては非常に苦しい道のりかも知れない。
思うに、酒井雄哉氏の言葉にある“いい環境”とは、そういうもの。
学びの過程における“いい環境”とは、必ずしも“自分にとって心地良い環境”ではないこと、むしろ忍耐と地道な鍛錬を強いられるものであることを理解しなければ、物事を深く学ぶことはできない。

学びとは、ただ何かを身に付けることではない。
私は、自ら厳しさと対峙する精神力を養うことこそが学びの意義であり、その意志を持ち得る人の前には、遅かれ早かれ必ず道が開かれると確信している。

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2018年07月20日

11.想像力

何処にも行った事のない小さな子供に、
遠い旅から帰ってきた大人が話をしている。
別の国の人々がどんな暮らしをしているか……
想像してほしい。
これは19世紀中頃のお話。
今の時代は、ヨーロッパでもロシアでもアメリカでも、
よその国の事をテレビなどで見聞きできるけれど、
シューマンが生きていた頃はその様な事はなかった。
見知らぬ異国に、自分たちとは全く違う人々が住んでいる。
そんなお話を、綺麗な目をした子供たちが
その目を見開いて聞いている。
ここには、何かそう言った驚きがある。


R.シューマンのピアノ作品、『子供の情景』作品15の第1曲、“見知らぬ国と人々について”にまつわるお話。
こう言うお話を聞くと、人間の想像力を育むものとは何なのだろうと、改めて考えさせられる。そして、彼ら(クラシック音楽の作曲家たち)がいったいどれ程の豊かなイマジネーションを持っていたのだろうと。更には、その音楽を私たちが弾く意味は何なのだろう……果たして演奏家は作品から何を受け取り、何を聴衆と分かち合うべきなのだろうと。

そんな事に想いを馳せると、また演奏の在り方の一つの理想が見えてくる(前回の記事では、作曲家の良心について書かせて頂いたが)。
それは、想像力。
とりわけ、ロマン派時代の作品は芸術家の詩的想像の宝庫だ。
情景、物語……何でもよい。
その演奏から聴き手が何か新鮮な驚きと自由な想像を得られるならば、こんなに素晴らしい事はないと思う。
posted by tetsumichi at 07:00| 音楽について