「この世で最も美しい旋律は音階。」
モーツァルトやチャイコフスキーの音楽を思い浮かべると、私はこの言葉に深く頷かずにはいら
れません。
音階を無味乾燥に弾いてしまう人がいます。
まるで音階は音楽ではなく、指の訓練だとでも言わんばかりに。
ですが、考えてみて下さい。
音階を音楽的に弾けずして、例えば、いったいどうやって古典派の作品を演奏できるのでしょう
か?
音階の美しさに気づく事。
非常に意味のある事だと思いませんか?
2021年04月15日
35.最も美しい旋律。
posted by tetsumichi at 07:00| 音楽について
2020年06月15日
32.教師も、生徒も。
インターネットを利用しての遠隔レッスンを導入し始めた4月中旬頃から、改めて、教師とは何か、教育とは……と言った事に思いを巡らせるようになりました。
私は仕事の一つとしてピアノを教える事に従事していますので、それに限ってのお話ですが、生徒のテクニックの土台(技術面での基礎)を作る為には、教師が手取り足取り、言葉は悪いのですが調教の如く、徹底して叩き込まなければいけない時期が確かにあります。
ですが、ある時期を過ぎての調教の様な教え込みは“教え過ぎ”となり、生徒の自主性を摘み取ってしまったり、柔軟な思考の妨げとなる固定観念を形成させてしまう危険性を多分にはらんでいます。
上手くなりたいと思う生徒は、自分自身で考え、努力をします。
教える立場の人間がすべき事は、彼らの努力を熟視し正しい方向に導く事。決して、調教の様に技や自身の作品に対する解釈を教え込む事ではありません。
教え育てるというのは、本来大変長い年月を要するプロセスであるはずです。
何せ、人が10年、20年かけて成長していくのを待たなければならないのですから。
ところが現代では、分かりやすい、目に見えて成果の現れる教え方が良しとされている風潮が強い様に感じます。早くに結果を求める事が全く無価値とは言いません。それはそれで一つの在り方、考え方でしょう。ですが多くの場合……そこに教える側の見栄やエゴ、教わる側の怠慢があるように思えてならないのです。
教える事は容易い、けれど、育てる事は本当に難しい。
教わる事は容易い、けれど、育つ事は本当に難しい。
「急いては事を仕損じる」と言う言葉があります。
人生という長いステージで本当に良いものを獲得するには、教える側も教わる側も時間をかける事の価値を知り、思慮深くあらねばならないのですね。
私は仕事の一つとしてピアノを教える事に従事していますので、それに限ってのお話ですが、生徒のテクニックの土台(技術面での基礎)を作る為には、教師が手取り足取り、言葉は悪いのですが調教の如く、徹底して叩き込まなければいけない時期が確かにあります。
ですが、ある時期を過ぎての調教の様な教え込みは“教え過ぎ”となり、生徒の自主性を摘み取ってしまったり、柔軟な思考の妨げとなる固定観念を形成させてしまう危険性を多分にはらんでいます。
上手くなりたいと思う生徒は、自分自身で考え、努力をします。
教える立場の人間がすべき事は、彼らの努力を熟視し正しい方向に導く事。決して、調教の様に技や自身の作品に対する解釈を教え込む事ではありません。
教え育てるというのは、本来大変長い年月を要するプロセスであるはずです。
何せ、人が10年、20年かけて成長していくのを待たなければならないのですから。
ところが現代では、分かりやすい、目に見えて成果の現れる教え方が良しとされている風潮が強い様に感じます。早くに結果を求める事が全く無価値とは言いません。それはそれで一つの在り方、考え方でしょう。ですが多くの場合……そこに教える側の見栄やエゴ、教わる側の怠慢があるように思えてならないのです。
教える事は容易い、けれど、育てる事は本当に難しい。
教わる事は容易い、けれど、育つ事は本当に難しい。
「急いては事を仕損じる」と言う言葉があります。
人生という長いステージで本当に良いものを獲得するには、教える側も教わる側も時間をかける事の価値を知り、思慮深くあらねばならないのですね。
posted by tetsumichi at 07:00| 音楽について
2019年06月15日
27.一生。
石の上にも三年、という慣用句がありますが、音楽を続ける事は三年どころか石の上に一生と言えるでしょう。
「たとえ周りの人たち皆に『あなたには才能がないから音楽はやめなさい』と言われようとも、音楽の道に進むという自分の気持ちを貫き通す。それくらいの意志がなければ、プロにはなれません」 ── もう随分昔の事になりますが、ある世界的ヴァイオリニストの方が、インタビューでこの様な発言をされていたのを読んだ記憶があります。
プロを目指すならば。
音楽に対して真剣にならなければならない。
音楽の道を気楽に考えてはいけない。
音楽に命をかけなければならない。
才能とは忍耐だ、と言ったピアニストがいますが、優れた音楽家になるには精神、技術両面においていかに忍耐強く、長い、長い時間をかけて自分自身を磨いていけるか、それにかかっていると言っても過言ではありません。
もしも、他人の評価次第で自分の意志が揺らぐならば。
自己鍛錬の過程で、妥協してしまうならば。
その人には、いずれ限界が訪れるでしょう。
自己鍛錬 ── 自分を見つめる事は、大変な辛さをも伴います。
ですが、尽きることのない向上心があれば、その辛さは克服できるはずです。良い音楽家になりたいと心の底から渇望しているならば、どんな嵐が来ようと、じっと石の上に座り続ける事は喜び以外の何物でもないはずですから。
そして、私は思うのです。
それこそが音楽を愛する事なのだと。
「たとえ周りの人たち皆に『あなたには才能がないから音楽はやめなさい』と言われようとも、音楽の道に進むという自分の気持ちを貫き通す。それくらいの意志がなければ、プロにはなれません」 ── もう随分昔の事になりますが、ある世界的ヴァイオリニストの方が、インタビューでこの様な発言をされていたのを読んだ記憶があります。
プロを目指すならば。
音楽に対して真剣にならなければならない。
音楽の道を気楽に考えてはいけない。
音楽に命をかけなければならない。
才能とは忍耐だ、と言ったピアニストがいますが、優れた音楽家になるには精神、技術両面においていかに忍耐強く、長い、長い時間をかけて自分自身を磨いていけるか、それにかかっていると言っても過言ではありません。
もしも、他人の評価次第で自分の意志が揺らぐならば。
自己鍛錬の過程で、妥協してしまうならば。
その人には、いずれ限界が訪れるでしょう。
自己鍛錬 ── 自分を見つめる事は、大変な辛さをも伴います。
ですが、尽きることのない向上心があれば、その辛さは克服できるはずです。良い音楽家になりたいと心の底から渇望しているならば、どんな嵐が来ようと、じっと石の上に座り続ける事は喜び以外の何物でもないはずですから。
そして、私は思うのです。
それこそが音楽を愛する事なのだと。
posted by tetsumichi at 07:00| 音楽について
2019年05月05日
2019年03月25日
23.目的は音楽。
私が大野眞嗣先生の門を叩いてから既に9年近くの月日が経つが、いつも感嘆せざるを得ないのが、先生の演奏技術は勿論の事、演奏表現における驚異的なイマジネーションの豊かさだ。
先日もレッスンにて、私には到底思いもつかないようなタッチの使い分けを次々とご指摘いただき、それを実践する事で様変わりしていく自分の演奏に、音楽する事の楽しみや喜びを心の底からかみしめさせていただいた。
楽譜を見た時、一つの音型、一つのフレーズに、どれほど豊かな「イントネーション」を発見する(感じ取る)事ができるか。想像力がなければ、どんなに技術を磨いて楽器の扱いに長けようとも、それは宝の持ち腐れになってしまう。一流の技術を必要とするような教養と音楽的感性が、弾き手になければ……。
技術は、所詮手段に過ぎない。
目的は、音楽。
音楽が技術を求めるのであり、自分の技術で音楽を作ろうとしてはいけない。
大野先生の音楽(先生のイマジネーション)は、目から鱗が落ちる様な音楽体験のみならず、時につい技術を試す誘惑にかられ本末転倒になる私を、あるべき正しい方向へと導いて下さるのである。
先日もレッスンにて、私には到底思いもつかないようなタッチの使い分けを次々とご指摘いただき、それを実践する事で様変わりしていく自分の演奏に、音楽する事の楽しみや喜びを心の底からかみしめさせていただいた。
楽譜を見た時、一つの音型、一つのフレーズに、どれほど豊かな「イントネーション」を発見する(感じ取る)事ができるか。想像力がなければ、どんなに技術を磨いて楽器の扱いに長けようとも、それは宝の持ち腐れになってしまう。一流の技術を必要とするような教養と音楽的感性が、弾き手になければ……。
技術は、所詮手段に過ぎない。
目的は、音楽。
音楽が技術を求めるのであり、自分の技術で音楽を作ろうとしてはいけない。
大野先生の音楽(先生のイマジネーション)は、目から鱗が落ちる様な音楽体験のみならず、時につい技術を試す誘惑にかられ本末転倒になる私を、あるべき正しい方向へと導いて下さるのである。
posted by tetsumichi at 07:00| 音楽について