ご一読いただければ幸いです。
吉永哲道
〈モスクワ訪問記 其の一〉
9月28日から10月3日にかけて、バス歌手渡部智也氏とともにモスクワを訪れ、モスクワの中心部にあるプロコフィエフ博物館(プロコフィエフが晩年に生活、仕事をしていたアパート)、及び退役軍人の方々が過ごしておられる施設の二ヶ所でコンサートを行って参りました。日露交流がテーマでもあった今回の演奏会、実現に向け現地で沢山の方々が動いて下さり、また一流のロシア人民族楽器奏者との共演もあり……国境を、民族を越えて「音楽で繋がる事」の尊さを心からかみしめた次第です。
3回程に分けて拙文ながら今回のモスクワ訪問について書かせて頂きますが、本記事ではプロコフィエフ博物館で出会ったピアノについて少々綴りたく思います。演奏会前日のリハーサルでの事。博物館には2台のスタインウェイがあったのですが、設置されていた楽器がいくら弾いてもピンときません。聴いてくれていた渡部氏に、“音が安っぽいよね?”と聞くと、“そこまでは言わないけど……”と答えてくれつつも苦笑い。どうしたものかといささか困惑していたところ、ふと、ホールの隅に置かれている古いピアノが目に入ったのです。淡い期待を抱きつつ、恐る恐る鍵盤の蓋を開けポーンと一音。……何と味わいのある響き!一般的にピアニストは楽器を持ち運ぶ事ができませんが、だからこそ、こういう瞬間には心震える喜びを感じるのです。古いニューヨークスタインウェイ。どんな経緯でここモスクワのプロコフィエフ博物館に来たのか……その後、ピアノとじっくり対話するように弾き込みました。長い年月を経た楽器には、きっと、製造者やその楽器に触れてきた人々の想いが込もっている。私は、そう言った……魂の宿る楽器の音色に心をひかれるのです。
〈モスクワ訪問記 其の二〉
今回は、少し個人的な内容となります事をご容赦下さい。
私が、1998年9月から2008年12月にかけてのモスクワでの留学生活を終え、再び同地を訪れたのは2015年9月、実に7年の月日が経っていました。きっかけは恩師、ヴェーラ・ゴルノスターエヴァ先生の訃報。私は縁あって、11歳の時から日本で定期的にヴェーラ先生のレッスンを受ける機会に恵まれ、その後前述の通り、モスクワ音楽院へ留学しました。日本とロシアを通して18年間先生の下で学ばせていただいた訳ですが、その初めての出会いは、今も私の記憶に鮮明に刻まれています。公開の場で何曲か演奏をお聞きいただいたのですが、その内の1曲、ショパンの〈革命のエチュード〉に対して先生は、「今のあなたには技術的にも精神的にも、この曲はまだ弾けません。こういう作品なのですから」とおっしゃられ、その場で全曲演奏して下さったのです。音楽は音で語られなければならない……私が今も“響き”にとことんこだわらずにいられないのは、この時の先生の演奏が原体験にあるからに違いありません。
2015年1月、先生の訃報は本当に突然の事でした。先生との出会いがなければ、今の私の音楽人生は全く違うものになっていたはずです。墓前でお礼とお別れを申し上げたい。その想いで、同年9月、7年ぶりにモスクワを訪れました。
以来、3回目となる今回の訪問では、現地の方々の多大なお力添えで演奏会が実現しました。幼き日よりヴェーラ先生に導かれ10年という歳月を過ごしたモスクワで、ロシアの音楽を演奏する機会をいただけた事は、私にとって大きな喜びでした。次回の記事では、演奏会を終えて感じた事等を書かせていただきたく思います。
〈モスクワ訪問記 其の三〉
“日本とモスクワでは、何かが違う” ── モスクワでの2回の演奏会(2018年9月30日、10月2日)を終えた後、渡部智也氏とそのような会話になりました。
その“何か”を言葉で言い表す事は難しいのですが……日本での演奏会と、モスクワでロシア人の聴衆を前に演奏する事とでは、自分たちの意識の在り方に何か決定的な違いを感じたのです。思うに、これがやはり、その文化を生み出した土地の空気に触れる事の意義なのではないでしょうか。ロシア語を耳にしながら、例えば、プーシキン、マヤコフスキーと言った偉大な文化人たちの銅像が立つ広場を歩き、音楽院、ボリショイ劇場等、歴史の重みを感じさせる建築物を訪れる。写真で見るだけでは味わえない、その場の空気ごと肌で直接感じ取られるリアルな体験が、演奏の瞬間にも、私たちの無意識の領域に大きく作用しているように思うのです。けれど、“やっぱり違うよね”で済ませてしまっては、ロシア訪問がただの楽しい旅行になってしまう。その現地で受け取った感覚をしっかりと日本に持ち帰り演奏や指導を続けてこそ、旅が実りあるものになるのだと、自分たちの音楽人としての在り方を改めて再確認した次第です。
私は、人と人が言葉を超えて何かを分かち合える事が、音楽の素晴らしさだと思っています。演奏家は、ただ良い声で歌うだけでは、ただ美しい響きで楽器を弾くだけでは充分に役割をなしたとは言えない。奏者に、作品に込められた作曲家の魂に対する狂おしいまでの共感があって初めて、演奏は聴き手に何かを伝え得るものとなる。演奏とは、いわば魂の鍛錬 ── そうして自らの心を深める事の尊さを、ロシアと言う国もまた、私に教えてくれるのです。
3回にわたりこのコラムをお読みいただき、大変有難うございました。
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