2018年09月05日

16.内なる声に。

「あなたが主張するのではなく、音楽に語らせなさい。」

モスクワ留学中に、エンリケ・グラナドスのピアノのための組曲《ゴイェスカス》より第5曲、“愛と死”をヴェーラ先生にレッスンして頂いた時の事だ。

「この曲は、あからさまな情熱をぶつけて弾いてはいけない。この作品に内包されているのは、ただひたすらに献身的な愛と、その愛に常に隣り合わせで存在する死、私たち人間にとっての、真の悲劇。
演劇における役柄の一つに、“悲劇役者”というのがあるのをあなたは知ってる?彼らは悲しい出来事をわざと大仰な口調、身振りで表現する。勿論、語っている内容そのものは悲劇なのだけれど、そのような大袈裟な芝居によって、実際には観客の笑いを誘う喜劇になる。今のあなたの演奏からはその様な印象を受ける。
自分が作品の中に感じた悲しみや苦しみを、そんなにあけっぴろげに表現してはいけない。そのような安易な感情の投影は、この曲の品位を落としてしまう。優れた音楽作品は、それ自体が語られるべき充分な内容を持っている。」

そして冒頭の言葉をおっしゃられたのだ。
あなたではない、音楽に語らせよと。

当時私は29歳だったが、この「音楽に語らせる」という事がどうしても分からなかった。
気持ちを込めれば大袈裟になってしまい、抑えると演奏そのものがこじんまりとなってしまう。いったいどうすれば……。

つまるところ、重要なのは響きなのだ。
器楽曲には言葉がない。
故に響きに表情がなければ、色がなければ、温度がなければ、変化がなければ……それは、ただ強弱の差のみの音の羅列となり、音楽そのものは何も語り得ない。
また、演奏者があからさまに自分の情熱を鍵盤(音楽)にぶつけてしまっては……悲劇は誇張され喜劇になってしまうというのも、予想がつくだろう。

響きを徹底的に追求する過程で、作品の内なる声が徐々にきこえるようになる。
その内なる声を演奏者自身がきけてこそ、初めて“音楽自身”が語りだすのであり、そうでなければ、演奏は単なる奏者の自己主張にすぎなくなってしまう。

勿論、演奏に対する価値観は様々だ。様々であってよいと思う。
ただ私は……内なる声がきこえてこない演奏には、それが技巧的にどんなに優れていようとも、どこか虚しさを感じてしまうのだ。


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posted by tetsumichi at 07:00| ロシアピアニズム