根っこが貧弱な花はすぐ枯れてしまうように、音楽の勉強(ここではピアノの演奏を想定する)においても、彼(彼女)の才能が開花するには相応の立派な根が必要となる。
音楽を学ぶ上での根っこ……私は、《優れた演奏技術》こそがそれに当たると思う。優れた演奏技術が根っことしてあり、そこに、例えば知識や経験と言った養分が与えられる事で漸く美しい花が咲く。この技術と言う根がなければ花自体の生命力によって美しい花は咲かないし、たとえ教師が枝葉を整え仕立て上げたとしても決して長続きはしないだろう。
私は生徒に対して、そして何より自分自身に対して、忍耐強く根っこを育てられる人間でありたい。
・好奇心
作曲家は、音楽によって何か表現したいと欲する故に作品を書く。
なぜフォルテを書いたのか?なぜピアノを書いたのか?なぜクレッシェンドを?なぜディミヌエンドを?なぜ単なるスタッカートではなくスラースタッカートを?なぜ、その音にアクセントを?なぜここで転調するのか?なぜここでこの和音を選んだのか?そもそも、なぜこの調でこの作品を作曲したのだろう?
楽譜を注意深く見れば、疑問は果てしなく浮かぶ。弾き手が能動的な態度で作曲家の意図を探り、自分なりの理解を持たなければ、演奏は形ばかりの行為となってしまう。音楽を学ぶ人たちには、日々の練習がただ譜面上の音符や記号を再現する作業に陥らない為にも、是非楽譜に書かれた事の意味を問う好奇心を燃やし続けて欲しい。
・ハーモニー
「水を得た魚」という慣用句があるが、ハーモニーとメロディーの関係も、まさに水と魚に例えられると思う。水があってこそ、魚は生き生きと、自由に泳ぎ回る事が出来る。いや、そもそもほとんどの魚が水が無ければ生きられないだろう。音楽も然り。ハーモニーという水があってこそメロディーという魚が泳ぐ事が出来る。豊かに響くハーモニーの中でこそ、メロディーは自由に歌う事が出来る。
J.S.バッハの作品を弾いていると、つくづくそう思うのだ。
・沈黙
沈黙は、しばしば音そのものよりもはるかに多くを語る。
沈黙は、その後に発せられる言葉や音に、より一層の深みを与える。
私が10代の頃、故ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ氏がマスタークラスにて、「聞こえるか聞こえないかの弱音を奏でられてこそ、本物の演奏家なのです」とお話し下さった事を、勿論一言一句正確ではないが今も鮮明に記憶している。甚だおこがましい行為と承知の上で、氏のこのお言葉に付け加えさせて頂きたい。
「沈黙(休符)で音楽を表現できてこそ、本物の演奏家である」と。
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