2018年12月25日

18.モーツァルト

闇と沈黙。

これらの言葉は、モーツァルトの音楽に相応しいと言えるだろうか?


例えば、KV.475のファンタジーの冒頭部分を支配する、言い知れぬ不気味さ。ユニゾンによる、奇妙に歪められたハ短調の音階の響きに、私はまるでありとあらゆる感情が排除されたかの如く深い闇を感じるのだ。

いったい、どんなモーツァルトの心理状態がこのテーマを生み出したのだろう?


そして、休符。

モーツァルトの音楽において、休符は非常に重要な役割を担っている。

生き生きとした語り口の彼が、不意に口をつぐむ瞬間。

ハ短調のファンタジーの冒頭にもこの沈黙が現れるが、主題の重苦しい楽想故、その沈黙は一層の緊張を伴い聴き手の心に入り込んでくるようだ。


モーツァルトが、音楽史上稀に見る天賦の才を持つ人物であった事は、疑いの余地がない。

その作曲のペースを考えても(単純計算でも、オペラやシンフォニーと言った大曲も含めコンスタントに約2週間で1曲を書き上げていた事になるそうだ)、恐らく、とめどなく溢れ出てくる音楽を書き留める為にひたすら五線紙にペンを走らせる、そんな感覚だったのだろうと想像される。

しかし、物に光が当たれば必ず影ができるように、その天才性が輝けば輝くほど、同等の闇が生まれたのではないか。


流暢であるが故の、沈黙。

眩いばかりの才能の煌めき故の、闇。


それら両極の間で翻弄されながら生きる事が、音楽に愛され稀有なる才能を授けられたモーツァルトの宿命であったのかも知れない。

彼の音楽が持つあまりに純粋無垢な悲しみや、ふとした瞬間に現れる深い闇を感じる時、私はそんな事を思わずにいられないのだ。

posted by tetsumichi at 07:00| 作曲家

2018年12月18日

【終了報告】命の歌。

去る11月30日(金)、静岡市は顕光院本堂にて「こんちぇるてっくなお寺の夕べ Vol.3」を開催致しました。今回も多くのお客様がお集まり下さり、盛況の内に終えられました事を、出演者一同嬉しく思っております。改めまして、ご住職の木村文輝様をはじめ演奏会の為にご尽力下さった皆様、また当日お運びいただき温かく耳を傾けて下さった全てのお客様に、心より御礼申し上げます。



《森で生きている間、黙っていた。命を失った今、澄んだ声で歌う。》


これは、ある古いチェロにラテン語で刻まれていた言葉だそうで、演奏会に向けての準備の折に、メゾソプラノの山本彩子さんが教えて下さいました。


伐採され命を失った樹木が、楽器として姿を変え声を得る。

……ふと、ピアノも同じだと思ったのです。

ピアノもまた木が使われている楽器であり、奏者はその命を貰って音楽を奏でているのだと。


顕光院のコンサートで使用したピアノは、前回同様、約100年前にイギリスで製造されたアップライトピアノ。人の寿命に例えれば既に100歳を超えている訳ですから、当然、経年劣化故の演奏上の不都合が色々とあった事も事実です。けれども、鍵盤へのタッチ次第では非常に繊細で、今の楽器にはない良い意味で枯れた、味わいのある響きで応えてくれる。


ピアニストは一般的に自分の楽器を持ち運ばない(持ち運べない!)為、演奏会で楽器を選ぶ事はできません。ですが、逆もまたしかり。ピアノも自らの意思で弾き手を選ぶ事はできません。彼らはただ、弾かれる事を待っているだけなのです。


目の前に100年の歳月を経て尚、歌おうとしている楽器がある。

それならば、私がなすべき事はただ一つ。

その楽器が持っている一番美しい声……《澄んだ声》を引き出す為に、心を尽くす事。


ピアノから生まれる、木々の命の歌。

一心に楽器や音楽と向き合う事ができる自分の人生を、私は幸いに思っています。

またどこかの会場で皆様とお会いできますように。

吉永哲道


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posted by tetsumichi at 10:37| その他