2018年09月26日

モスクワでの演奏会。

9月30日に、モスクワはプロコフィエフ博物館(Музей С.С.Прокофьева )にてコンサートに出演します。

Россия ? Япония: музыкальный перекрёсток.
Встреча японских и российских музыкантов
ロシアー日本:音楽の十字路
日本とロシアの音楽家の出会い

ロシアの日本大使館のページでも紹介されています。

http://www.ru.emb-japan.go.jp/japan2018/jp/event/mo7226-jp.html

留学で10年過ごした場所だからでしょうか、私にとって、モスクワでの演奏の機会はやはり格別の喜びです!
存分に空気を味わいながら演奏して参ります。

吉永哲道

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posted by tetsumichi at 07:00| モスクワ

2018年09月25日

17.学びとは。

《自分が「この世界で生きよう」と思って、そのことだったらこの人に聞かなきゃわからない、という師匠を見つけたら、追い返されようが何されようが、そこにずっとへばりついて動かないという気持ちが大事なんだな。
何か目標があって、師匠を見つけたら、ずっと食らいついていくぐらいの根性がないとダメなんだ。そうやって、いい環境を求めていけば、素晴らしいものが与えられるからね。》
ー 酒井雄哉著『そのままの自分を出せばいい』より。


自分が心の底から求めるものがあり、それを得るチャンスに恵まれたならば、なりふり構わず、プライドなどかざさず、とことん求めればよい。ただ渇望し、ひたむきになればよい。そうすれば、必ず自分にとって必要なものが与えられる。

しかしながらそれは……場合によっては非常に苦しい道のりかも知れない。
思うに、酒井雄哉氏の言葉にある“いい環境”とは、そういうもの。
学びの過程における“いい環境”とは、必ずしも“自分にとって心地良い環境”ではないこと、むしろ忍耐と地道な鍛錬を強いられるものであることを理解しなければ、物事を深く学ぶことはできない。

学びとは、ただ何かを身に付けることではない。
私は、自ら厳しさと対峙する精神力を養うことこそが学びの意義であり、その意志を持ち得る人の前には、遅かれ早かれ必ず道が開かれると確信している。

posted by tetsumichi at 07:00| 音楽について

2018年09月20日

【演奏会情報】カンマーザールサロンコンサート  吉永哲道ピアノリサイタル 〜響きの芸術〜

音楽は響きの芸術である。
私は、先ず何よりもその事を、10代の頃から傾倒しているロシアのピアニズムに教えられてきました。
今回取り上げます作曲家、ラモー、ベートーヴェン、ムソルグスキー、ドビュッシー。彼らの音楽が創造する響きに、私たちは何を感じ取るのでしょうか。その“何か”を皆様と共有できるならば……これに勝る喜びはありません。
是非お運び頂ければ嬉しく思います。
吉永哲道


カンマーザールサロンコンサート
吉永哲道ピアノリサイタル
〜響きの芸術〜

〈日時〉
2018年10月12日(金)14:00開演(13:30開場)
〈会場〉
カンマーザール in 立川
〈出演〉
吉永哲道(ピアノ)
〈曲目〉
J-F.ラモー:
クラヴサン曲集より
“ミューズたちの対話”、“つむじ風”
C.ドビュッシー:
プレリュード第2集より
“月光の降り注ぐテラス”、“風変わりなラヴィーヌ将軍”
L.v.ベートーヴェン:
ピアノソナタ第17番 ニ短調 op.31-2 「テンペスト」
M.ムソルグスキー:
展覧会の絵

〈入場料〉
全自由席 2,000円
コーヒー、紅茶、プレゼントつき
〈主催〉
音楽企画マイスキーヴェーチェル
〈後援〉
認定NPO法人 おんがくの共同作業場
〈チケットお問い合わせ〉
カンマーザール
Tel:042−522−3139


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posted by tetsumichi at 07:00| 演奏会情報

2018年09月18日

【終了御礼】音楽と人生。

去る9月11日、日比谷スタインウェイサロン東京 松尾ホールにて、「〜ロシアピアニズムの響き〜 吉永哲道ピアノリサイタル」を開催致しました。
お運びくださりました皆様に、改めまして心より御礼申し上げます。

「悲しい音楽を演奏するのに、必ずしも演奏者自身が同じような悲劇を体験していなくともよい。同様に、愛について語っている音楽を弾く時、必ずしも同じような愛を知っていなくともよい。なぜなら、私たちは時に、音楽から人生を教わるのだから。」

10代前半の少年だった私に、恩師であるヴェーラ先生がこのようなお話をしてくださった事がありました。
殊に最近、その事を強く想うのです。
感情的になって演奏するのではなく、響きにじっと耳を傾けながら作品と向き合っていると……音楽(作品)が、恐らく私たち誰もが人生で経験する様々な心の機微を教えてくれる。不思議な感覚なのですが、上記の先生のお話から幾多の歳月が流れた今になって、私は漸くそれを、身を持って実感するようになりました。

音楽を通して、人生を“心で”より深く理解する。

ただ一心に、これからも精進を重ねて参りたいと思います。
またどこかの会場で皆様にお目にかかれますように。
吉永哲道


〈プログラム〉
【前半】
J.S.バッハ=F.ブゾーニ:コラール前奏曲「目覚めよと呼ぶ声す」 BWV645
J.S.バッハ:フランス組曲第2番 ハ短調 BWV813
L.v.ベートーヴェン:ピアノソナタ第17番 ニ短調 op.31-2 「テンペスト」
【後半】
M.ムソルグスキー: 展覧会の絵

〈アンコール〉
M.グリンカ:「別れ」ノクターン
C.ドビュッシー:前奏曲集第2集より “風変わりなラヴィーヌ将軍”
D.スカルラッティ:鍵盤ソナタ d-moll K.32 “アリア”
J-F.ラモー:クラヴサン曲集より “つむじ風”
J.ブラームス:間奏曲 op.118-2

posted by tetsumichi at 09:30| その他

2018年09月05日

16.内なる声に。

「あなたが主張するのではなく、音楽に語らせなさい。」

モスクワ留学中に、エンリケ・グラナドスのピアノのための組曲《ゴイェスカス》より第5曲、“愛と死”をヴェーラ先生にレッスンして頂いた時の事だ。

「この曲は、あからさまな情熱をぶつけて弾いてはいけない。この作品に内包されているのは、ただひたすらに献身的な愛と、その愛に常に隣り合わせで存在する死、私たち人間にとっての、真の悲劇。
演劇における役柄の一つに、“悲劇役者”というのがあるのをあなたは知ってる?彼らは悲しい出来事をわざと大仰な口調、身振りで表現する。勿論、語っている内容そのものは悲劇なのだけれど、そのような大袈裟な芝居によって、実際には観客の笑いを誘う喜劇になる。今のあなたの演奏からはその様な印象を受ける。
自分が作品の中に感じた悲しみや苦しみを、そんなにあけっぴろげに表現してはいけない。そのような安易な感情の投影は、この曲の品位を落としてしまう。優れた音楽作品は、それ自体が語られるべき充分な内容を持っている。」

そして冒頭の言葉をおっしゃられたのだ。
あなたではない、音楽に語らせよと。

当時私は29歳だったが、この「音楽に語らせる」という事がどうしても分からなかった。
気持ちを込めれば大袈裟になってしまい、抑えると演奏そのものがこじんまりとなってしまう。いったいどうすれば……。

つまるところ、重要なのは響きなのだ。
器楽曲には言葉がない。
故に響きに表情がなければ、色がなければ、温度がなければ、変化がなければ……それは、ただ強弱の差のみの音の羅列となり、音楽そのものは何も語り得ない。
また、演奏者があからさまに自分の情熱を鍵盤(音楽)にぶつけてしまっては……悲劇は誇張され喜劇になってしまうというのも、予想がつくだろう。

響きを徹底的に追求する過程で、作品の内なる声が徐々にきこえるようになる。
その内なる声を演奏者自身がきけてこそ、初めて“音楽自身”が語りだすのであり、そうでなければ、演奏は単なる奏者の自己主張にすぎなくなってしまう。

勿論、演奏に対する価値観は様々だ。様々であってよいと思う。
ただ私は……内なる声がきこえてこない演奏には、それが技巧的にどんなに優れていようとも、どこか虚しさを感じてしまうのだ。


posted by tetsumichi at 07:00| ロシアピアニズム