2018年05月25日

6.音楽断想【1】

・左手の熟達
生徒のレッスンをしていると、いかに左手のパートに関心を持つべきか、左手が音楽的に弾けているかどうかが重要である事を痛感する(左手に無関心な生徒が多いのだ)。美しい旋律、華やかなパッセージ……弾き手にとって、右手のパートは誘惑に満ちている。だが、支えである左手のパートの表現がおざなりになってしまっていては、右パートは決して、真の美しさを発揮し得ない。左手の熟達。ポリフォニー音楽の最高峰であるJ.S.バッハを学ぶ意味の一つが、この事であると思う。
 
・感じるとは
「作品をどう感じているか。」
「感じた事を大胆に表現する。」
演奏において、かような演奏者の姿勢が大変重要である事は言うまでもないが、私たちは、その真意を熟慮しなければならない。この場合の「感じる」とは、「作曲家がその作品を通して何を訴えようとしたかを汲み取る」事であり、「一つ一つのフレーズがどう表現されたいと欲しているかを理解する」事であり……演奏とは、決して演奏者本位の行為でないのだと。作品(音楽)に、心身を捧げる事の難しさと尊さ。音楽の道を志す若い生徒たちは、いつか必ず、この事に深く思い至らなければならないと思う。
 
・早食い競争は……
演奏者が耳でタッチをコントロールできておらず(場合によっては、コントロールしようと言う意識すら感じられず)、指先が走るがままの状態になっている演奏を聴くと、例えは悪いが、まるで早食い競争を見させられているようでうんざりしてしまう。
どうか、無意味に速く弾かないでほしい(そう聞こえてしまうように弾かないでほしい)。
どうか、一つ一つの音に価値を見出だし、「作曲家が書いた『音楽』を味わいながら」弾いてほしい。
 
・成長
成長とは。自分の欠点を認める素直さを持つ事。それを克服せんとする忍耐を持つ事。たとえ克服できたとしても慢心せず、絶えず自分を疑い、より向上しようとする探求心を持つ事。それは、かくも長く大変な道程なのだ。恥やプライドを盾に、或いは精神的稚拙さ故に、そのスタートラインに立つ事(自身の欠点に真正面から向き合う事)から逃避しているような人を見ると、つくづく勿体無いと感じずにいられない。このスタートラインに自らの意思で立てるか否かが、その人の人生における大きな分岐点の一つとなるのだと思う。
私はそれを、音楽を通して学んだ。
 
 
image1.JPG
posted by tetsumichi at 07:00| 音楽について

2018年05月24日

【演奏会情報】第2回ロシア声楽コンクール受賞記念コンサート

第2回ロシア声楽コンクール受賞記念コンサート
渡部智也(バス)/プロフェッショナル部門 一般 第1位
吉永哲道(ピアノ)/最優秀伴奏者賞


共にモスクワ音楽院で学んだ私たち渾身の、ロシアンプログラムです。
是非お聴き頂ければ嬉しく思います。
渡部智也、吉永哲道

〈日時〉
2018年8月18日(土)14:00開演(13:30開場)
〈会場〉
ヤマハ銀座コンサートサロン(ヤマハ銀座ビル6F)
〈出演〉
渡部智也(バス)
吉永哲道(ピアノ)

〈曲目〉
[ピアノ独奏]
M.グリンカ:ノクターン「別れ」
M.ムソルグスキー:展覧会の絵
[バス歌唱]
M.グリンカ:歌曲集「ペテルブルクの別れ」より
M.ムソルグスキー:オペラ《ボリス・ゴドゥノフ》より「ボリスの死」

〈主催〉
株式会社ヤマハミュージックジャパン

*チケット発売は6月中旬頃を予定しております。
お問い合わせ先の等詳細は、追ってアナウンス致します。


20180818.JPG
posted by tetsumichi at 08:00| 演奏会情報

2018年05月15日

5.ピアノは弦楽器。

弦楽器とは、弦の振動によって響きを生じさせる楽器の総称であり、その発音機構の違いにより擦弦楽器、撥弦楽器、打弦楽器の3種類に分類される。それぞれが、“弓などで擦る事で”、“はじく事で”、“ハンマー等で打つ事で”弦を振動させており、例えばヴァイオリンを始めとする一般的に弦楽器と呼ばれるものは正確には擦弦楽器であり、撥弦楽器の代表と言えばチェンバロだろう。
 
それでは、ピアノはどうだろうか?
単純に打楽器と認識されてしまう事も多いピアノだが……“ハンマーで打つ事で弦を振動させ、響きを生じさせる”という仕組みを考慮するならば、ピアノは明らかに打楽器ではなく打弦楽器、そう、弦楽器に分類されて然るべきと言える。
弦楽器である以上、力んで打鍵する、つまり弦にハンマーを押し付けるような弾き方をしてしまっては、響きは殺され、楽器がもはや楽音とは呼べない悲鳴をあげるのは当然の事だ。
 
最小のエネルギーでいかに弦をよく振動させるか。
弦がよく振動していればしているほど、響きに含まれる倍音成分が豊かになり、響きそのものが歌い始めるのだ。
 
先月の記事(「3.響きに思う。」)で、ロシアでは《打鍵》に相当する言葉はなく《鍵盤に触れる》と表現する、と書いたが、ピアノが弦楽器であると言う観点からも、鍵盤を打ってしまっては絶対に伸びやかなよい響きは得られない。
 
恩師、故ヴェーラ・ゴルノスターエヴァ先生の言葉を借りよう。
《私が、愛する者に触れるかのように、優しさを込めてピアノに触れると、ピアノも同じ優しさを持って応えてくれる。私がピアノに接するように、ピアノも私に接してくれる……。
ピアノにただやみくもに突進してはいけない。ピアノは無造作にたたかれることには耐えられないのだ。》
 
勿論、ただ触れるだけでは楽器は歌わない。
いかに触れるかに、優れた奏者は心を砕く。
ヴァイオリニストが、チェリストが、弓を弦に力任せに押し付けてしまったらどんな結果が待っているだろうか。
ピアノもまた紛れもなく弦楽器である事を、私たちは常に心に留めておかなければならない。
 
力ではなく、腕の重みを使って楽器を慈しむように。
あなたがピアノに接するように、ピアノもあなたに接してくれるのだから。
 
posted by tetsumichi at 07:00| ロシアピアニズム