2018年06月17日

「ヴァディム・ホロデンコ ピアノリサイタル」のご案内

ヴァディム
ホロデンコ
ピアノ・リサイタル
VADIM KHOLODENKO

2018年6月26日(火) 19:00開演(18:30開場)
浜離宮朝日ホール
全席指定・税込 5,000円

ラフマニノフ:
幻想的小品集より
前奏曲 嬰ハ短調「鐘」Op.3-2
10の前奏曲Op.23より
第1番 嬰へ短調
第2番 変ロ長調
第3番 ニ長調
第4番 ニ短調
第5番 ト短調
13の前奏曲Op.32より
第5番 ト長調
第11番 ロ長調
第12番 嬰ト短調
スクリャービン:
ピアノ・ソナタ第5番 Op.53
ショパン:
12の練習曲 Op.25

チケットお問い合わせは……
朝日ホール・チケットセンター
03-3267-9990
日本アーティストチケットセンター
03-5305-4545


私は1998年の秋から2008年末までの10年間、故ヴェーラ・ゴルノスターエヴァ先生の門下生として国立モスクワ音楽院で学び、その間沢山のロシア人(旧ソ連圏含む)同門生に出会って参りましたが、ホロデンコ氏は、技術、音楽性……全てにおいて群を抜く存在で、その見事な演奏の数々は今も私の記憶に深く刻まれております。
仙台国際音楽コンクールで優勝の経歴もあり、既に日本でも名の知られたピアニストではありますが、今回のリサイタルを是非より多くのお客様にお聴き頂きたく、ご紹介させて頂く次第です。
吉永 哲道

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posted by tetsumichi at 11:00| 演奏会情報

2018年06月15日

7.音楽断想【2】

・根を育てる
根っこが貧弱な花はすぐ枯れてしまうように、音楽の勉強(ここではピアノの演奏を想定する)においても、彼(彼女)の才能が開花するには相応の立派な根が必要となる。
音楽を学ぶ上での根っこ……私は、《優れた演奏技術》こそがそれに当たると思う。優れた演奏技術が根っことしてあり、そこに、例えば知識や経験と言った養分が与えられる事で漸く美しい花が咲く。この技術と言う根がなければ花自体の生命力によって美しい花は咲かないし、たとえ教師が枝葉を整え仕立て上げたとしても決して長続きはしないだろう。
私は生徒に対して、そして何より自分自身に対して、忍耐強く根っこを育てられる人間でありたい。
 
・好奇心
作曲家は、音楽によって何か表現したいと欲する故に作品を書く。
なぜフォルテを書いたのか?なぜピアノを書いたのか?なぜクレッシェンドを?なぜディミヌエンドを?なぜ単なるスタッカートではなくスラースタッカートを?なぜ、その音にアクセントを?なぜここで転調するのか?なぜここでこの和音を選んだのか?そもそも、なぜこの調でこの作品を作曲したのだろう?
楽譜を注意深く見れば、疑問は果てしなく浮かぶ。弾き手が能動的な態度で作曲家の意図を探り、自分なりの理解を持たなければ、演奏は形ばかりの行為となってしまう。音楽を学ぶ人たちには、日々の練習がただ譜面上の音符や記号を再現する作業に陥らない為にも、是非楽譜に書かれた事の意味を問う好奇心を燃やし続けて欲しい。
 
・ハーモニー
「水を得た魚」という慣用句があるが、ハーモニーとメロディーの関係も、まさに水と魚に例えられると思う。水があってこそ、魚は生き生きと、自由に泳ぎ回る事が出来る。いや、そもそもほとんどの魚が水が無ければ生きられないだろう。音楽も然り。ハーモニーという水があってこそメロディーという魚が泳ぐ事が出来る。豊かに響くハーモニーの中でこそ、メロディーは自由に歌う事が出来る。
J.S.バッハの作品を弾いていると、つくづくそう思うのだ。
 
・沈黙
沈黙は、しばしば音そのものよりもはるかに多くを語る。
沈黙は、その後に発せられる言葉や音に、より一層の深みを与える。
私が10代の頃、故ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ氏がマスタークラスにて、「聞こえるか聞こえないかの弱音を奏でられてこそ、本物の演奏家なのです」とお話し下さった事を、勿論一言一句正確ではないが今も鮮明に記憶している。甚だおこがましい行為と承知の上で、氏のこのお言葉に付け加えさせて頂きたい。
「沈黙(休符)で音楽を表現できてこそ、本物の演奏家である」と。
 
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posted by tetsumichi at 07:00| 音楽について

2018年05月25日

6.音楽断想【1】

・左手の熟達
生徒のレッスンをしていると、いかに左手のパートに関心を持つべきか、左手が音楽的に弾けているかどうかが重要である事を痛感する(左手に無関心な生徒が多いのだ)。美しい旋律、華やかなパッセージ……弾き手にとって、右手のパートは誘惑に満ちている。だが、支えである左手のパートの表現がおざなりになってしまっていては、右パートは決して、真の美しさを発揮し得ない。左手の熟達。ポリフォニー音楽の最高峰であるJ.S.バッハを学ぶ意味の一つが、この事であると思う。
 
・感じるとは
「作品をどう感じているか。」
「感じた事を大胆に表現する。」
演奏において、かような演奏者の姿勢が大変重要である事は言うまでもないが、私たちは、その真意を熟慮しなければならない。この場合の「感じる」とは、「作曲家がその作品を通して何を訴えようとしたかを汲み取る」事であり、「一つ一つのフレーズがどう表現されたいと欲しているかを理解する」事であり……演奏とは、決して演奏者本位の行為でないのだと。作品(音楽)に、心身を捧げる事の難しさと尊さ。音楽の道を志す若い生徒たちは、いつか必ず、この事に深く思い至らなければならないと思う。
 
・早食い競争は……
演奏者が耳でタッチをコントロールできておらず(場合によっては、コントロールしようと言う意識すら感じられず)、指先が走るがままの状態になっている演奏を聴くと、例えは悪いが、まるで早食い競争を見させられているようでうんざりしてしまう。
どうか、無意味に速く弾かないでほしい(そう聞こえてしまうように弾かないでほしい)。
どうか、一つ一つの音に価値を見出だし、「作曲家が書いた『音楽』を味わいながら」弾いてほしい。
 
・成長
成長とは。自分の欠点を認める素直さを持つ事。それを克服せんとする忍耐を持つ事。たとえ克服できたとしても慢心せず、絶えず自分を疑い、より向上しようとする探求心を持つ事。それは、かくも長く大変な道程なのだ。恥やプライドを盾に、或いは精神的稚拙さ故に、そのスタートラインに立つ事(自身の欠点に真正面から向き合う事)から逃避しているような人を見ると、つくづく勿体無いと感じずにいられない。このスタートラインに自らの意思で立てるか否かが、その人の人生における大きな分岐点の一つとなるのだと思う。
私はそれを、音楽を通して学んだ。
 
 
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posted by tetsumichi at 07:00| 音楽について

2018年05月24日

【演奏会情報】第2回ロシア声楽コンクール受賞記念コンサート

第2回ロシア声楽コンクール受賞記念コンサート
渡部智也(バス)/プロフェッショナル部門 一般 第1位
吉永哲道(ピアノ)/最優秀伴奏者賞


共にモスクワ音楽院で学んだ私たち渾身の、ロシアンプログラムです。
是非お聴き頂ければ嬉しく思います。
渡部智也、吉永哲道

〈日時〉
2018年8月18日(土)14:00開演(13:30開場)
〈会場〉
ヤマハ銀座コンサートサロン(ヤマハ銀座ビル6F)
〈出演〉
渡部智也(バス)
吉永哲道(ピアノ)

〈曲目〉
[ピアノ独奏]
M.グリンカ:ノクターン「別れ」
M.ムソルグスキー:展覧会の絵
[バス歌唱]
M.グリンカ:歌曲集「ペテルブルクの別れ」より
M.ムソルグスキー:オペラ《ボリス・ゴドゥノフ》より「ボリスの死」

〈主催〉
株式会社ヤマハミュージックジャパン

*チケット発売は6月中旬頃を予定しております。
お問い合わせ先の等詳細は、追ってアナウンス致します。


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posted by tetsumichi at 08:00| 演奏会情報

2018年05月15日

5.ピアノは弦楽器。

弦楽器とは、弦の振動によって響きを生じさせる楽器の総称であり、その発音機構の違いにより擦弦楽器、撥弦楽器、打弦楽器の3種類に分類される。それぞれが、“弓などで擦る事で”、“はじく事で”、“ハンマー等で打つ事で”弦を振動させており、例えばヴァイオリンを始めとする一般的に弦楽器と呼ばれるものは正確には擦弦楽器であり、撥弦楽器の代表と言えばチェンバロだろう。
 
それでは、ピアノはどうだろうか?
単純に打楽器と認識されてしまう事も多いピアノだが……“ハンマーで打つ事で弦を振動させ、響きを生じさせる”という仕組みを考慮するならば、ピアノは明らかに打楽器ではなく打弦楽器、そう、弦楽器に分類されて然るべきと言える。
弦楽器である以上、力んで打鍵する、つまり弦にハンマーを押し付けるような弾き方をしてしまっては、響きは殺され、楽器がもはや楽音とは呼べない悲鳴をあげるのは当然の事だ。
 
最小のエネルギーでいかに弦をよく振動させるか。
弦がよく振動していればしているほど、響きに含まれる倍音成分が豊かになり、響きそのものが歌い始めるのだ。
 
先月の記事(「3.響きに思う。」)で、ロシアでは《打鍵》に相当する言葉はなく《鍵盤に触れる》と表現する、と書いたが、ピアノが弦楽器であると言う観点からも、鍵盤を打ってしまっては絶対に伸びやかなよい響きは得られない。
 
恩師、故ヴェーラ・ゴルノスターエヴァ先生の言葉を借りよう。
《私が、愛する者に触れるかのように、優しさを込めてピアノに触れると、ピアノも同じ優しさを持って応えてくれる。私がピアノに接するように、ピアノも私に接してくれる……。
ピアノにただやみくもに突進してはいけない。ピアノは無造作にたたかれることには耐えられないのだ。》
 
勿論、ただ触れるだけでは楽器は歌わない。
いかに触れるかに、優れた奏者は心を砕く。
ヴァイオリニストが、チェリストが、弓を弦に力任せに押し付けてしまったらどんな結果が待っているだろうか。
ピアノもまた紛れもなく弦楽器である事を、私たちは常に心に留めておかなければならない。
 
力ではなく、腕の重みを使って楽器を慈しむように。
あなたがピアノに接するように、ピアノもあなたに接してくれるのだから。
 
posted by tetsumichi at 07:00| ロシアピアニズム